新潟県長岡まつり・花火大会
お隣の新潟県、長岡市の「長岡まつり」は、もともと長岡大空襲からの復興を記念して空襲の日(8月1日)を中心に開催され、祭りのメインイベントとして有名な花火は8月2日、3日の2日間打ち上げられます。特に注目の「三尺玉」は大正15年からの歴史があると聞いております。以前から「長岡の花火」といえば、盛大な花火祭りとして大変メジャーであり、機会があれば一度は見てみたいと思っておりました。
新潟県中越大震災については、まだ記憶に新しいところですが、新潟県には、同業他社で「北越メタル株式会社」、「三星金属工業株式会社」の2社があり、当社と3社で「東越棒鋼株式会社」という共販会社を設立し、月1回の定例会議により情報交換等を行って業界の発展に努めております。
震災の当日、私は、休日ということもあり、家でくつろいでいたところ、中越地震の一報をテレビで知ることとなりました。一瞬、神戸の震災の情景を思い出し、各メーカーの担当者の携帯に連絡をとりましたが、繋がらず、やきもきしておりました。 次第に状況がわかってくるにつれて、あまりにすさまじい状況に、当社として、何か協力できないか色々考えておりましたところ、テレビや新聞のニュースで赤ちゃんのミルク、哺乳瓶、おむつ、飲み水、食料が不足していることを知り、会社から4トントラック一台と乗用車に支援物資を満載して、震災発生3日後に新潟へ向かうことにしました。 震災の恐ろしさを身体で実感 新潟へ向かう前日にも震度5レベルの余震があり、収束の見通しがつかない状況のなか、いよいよ現地に向かう日の朝、それまであまり詳しく話してなかった家族に、新潟へ救援物資を届けにいくことを告げると、家内などは「どうしてあなたが行かなくちゃ、いけないの!救援隊も行ってるんでしょ?頼めばいいじゃないの」と、繰り返し不安を口にし、引き止めようとします。 気持ちのハヤッている私は、もどかしく、思わず沈黙。「お前に男の仕事が分かるか!」と一言いって家を出ました。 どうしてあんな言い方をしたのか、もう少しちゃんと説明すればよかったと、今になって思うのですが、気持ちはすでに走り始めていたのです。 長岡市近くの高速道路や長岡市内の一般道路はうねり、亀裂、陥没が見受けられ、近づくにつれ倒壊している家屋、体育館、学校に避難する人たち、飛び交うヘリコプター、自衛隊の装甲車が目に入り、震災の恐ろしさを、直に身体で感じました。男という生き物はいろんな場面で決断しなければならない時が必ずあると思います。でも、今思えば、本当に行って良かったと思っております。あの時の新潟メーカーの皆さんの、喜んでいただいた顔が、今でも忘れることができません。 その翌年、物資のお礼として、震災後初めての「長岡花火まつり」にお招きをいただきました。三尺玉の花火は、今まで見たことがないほど非常に大きく立派な花火であり、また、多数の花火の中で「フェニックス(不死鳥)」という、新潟県中越大震災復興を祈願した花火も素晴らしいものでありました。「フェニックス」は今年も打ち上げられると聞いております。今回の花火が新潟県民、長岡市民の復興に向けた熱い熱い「魂の花火」であったと私の心に深く刻みこまれております。昨年から震災復興の工事が進んでいる情報も入ってきており一日でも早く復興されますよう心よりお祈り申し上げます。